ちょっと、離れて。

村山産メロン(嘘)。Y口ありがと。


巡回先のひとつ、ある女性のブログを読んでいるうちに、色々と悶々としてきたのでメモしておこうと思います。卒論とは全く関係ないので、読み飛ばしてくださって結構です。きっとまとまらないし、内容も文体もぐしゃぐしゃになるだろうから。


「自分に何ができるか」という問いに関しては数日前の日記で触れたのでいいとしても、そのために僕が何をしているのか、ということについては常に考えないようにしてきました。
理由はひとつ。「何もしていないのではないか」という答えが出るのが怖いからです。逆に言うと、何もしていないという自覚が少なからず自分の中にあるということです。体を鍛えるということひとつをとってみても、僕が努力していると自信を持って言えるようなことは何もない気がします。ウェイトトレーニングも中途半端、拳法の技術練習は怠っているし、古武術の身体操作に至っては日常的に意識することすらままならない状態です。日常的にしていることと言えば箭疾歩と崩拳と浪ノ下ばかり。そして呆けた頭では妄想が進む一方です。精神的にも進歩しているとは言い難いのです。
例によって前置きが長くなりました。つまり、僕には自信が無いのです。自分が何かをこれだけやった、と胸を張って言うことができないからこそ、逃げの姿勢、守りの姿勢で自分の身を固めているのです。

少し前、友人に「なぜそんなに自分の価値を低く見ているのか?」と聞かれました。「簡単なこと、自分に自信がないからさ」僕は答えました。その言葉に偽りはありません。
もちろん僕にだって、客観的に自分の能力を見つめ、ある程度の評価を下すことはできます。ただ、その評価に満足しているかと聞かれるとNOだと言わざるを得ないのです。
就職活動をしていて、何度か「君は頑張ってるよ」と言われたことがあります。その言葉を聞くたびに僕は首を傾げたものでした。『頑張って』活動しているとは思っていなかったからです(この「頑張る」という言葉も曲者ですが)。『自分が納得しているか否か』という点で「頑張った」という言葉を使うのであれば、明らかに僕の答えはNOです。納得も何も。僕は、なにひとつ得ていないのですから。

「理想が高すぎるんじゃないか?」こんなことを聞かれたこともあります。でも、自分の持っている理想が高いか低いかなんてそれこそ僕には分かりません。僕の抱く理想像というのはつまり、僕の持っている主観的な「なりたい自分」というイメージであって、そこに客観的な評価を持ち込むことなどできないからです。


ここらで結論。
問題は理想が高いか低いかなんてことではなくて、自分がそれに到達できていない、と自覚していながらも努力を怠る、僕の意思の弱さにあるのです。
それは分かっているんです。情けないにも程があります。21にもなってスイッチの切り替えもできない。これが僕の抱える最大の弱みです。いや、年齢を引き合いに出す必要はないのでしょう。これは僕の意思の問題で、この先この問題が解決するかどうかは時間とは無関係、そんな気がします。



いやぁ、改めて見るとひどいな。