わがままになれるか。

桜道


今日は教育実習の事前指導講義があったため、Mさんの調査についていくことができずにお留守番でした。

という訳で今日はこれ。

環境を診断する―五感による生態学 (中公新書 614)

環境を診断する―五感による生態学 (中公新書 614)

多少古い本です。副題に『五感による生態学』とあるように、各章が味覚や嗅覚、触覚、聴覚、そして視覚と感覚といったふうに人間の感覚器官から生態学にアプローチを試みている本です。
僕の生まれは札幌なのですが、大学に進学して山形県に来てから、以前より一層五感を研ぎ澄ますということに力を費やすようになりました。それは僕が都会から地方に出てきたために、ウシガエルの鳴き声や桜の匂いなど、視覚以外で得られる情報量が格段に増えたことが原因のひとつです。絶えず周囲に気を配っているのは確かに多少疲れはしますが、代わりに得ることができる素晴らしい感覚は何ものにも変え難いと思うようになりました。これが自然の持つ力なのかな、と感じます。


さて、「自然保護を考えるにはわがままにならざるを得ない」というのは、以前僕がバスについての書籍を紹介した際に言ったことなのですが、これには理由があります。
ひとつの物事、特に環境問題という非常にスケールの大きな問題を多面的に捉えようとした場合、余程の場合を除けばそこに善悪は存在しません。それは長良川河口堰の問題であっても外来魚の問題であっても、ブナ林の中の舗装道路建設問題であっても話は同じです。至極当然のことですが、賛成する意見や反対する意見を持つのにはその当人なりの理由があるからです。


極端な話をしてしまうと、環境問題について二者が真っ向から意見を戦わせても決着がつかないのは、どちらもわがままを通さざるを得ないからです。別の言い方をするならば、木を切らざるを得ない立場の人間が「切る」というのと、切らせたくない立場の人間が「切るな」というのは同じ重さだからです。なぜならば、自分たちの「環境」*1が一番大切だからに他なりません。*2
人間がこれから地球上で生存していくにあたって、よく耳にする「自然とうまく共存していかなければならない」という考えは、今や人類のほとんどにとっての共通意識と言っていいと思います。しかし、実際に自分たちがどうかと考えてみると、目の前の便利さには勝てないというのが現実です。この点は個々人の価値観の違いが非常に強く出るので、結局議論はすれ違ってしまうのです。
「私は自然が大事」「いや僕は便利なほうがいい」と。
全員が納得する結果なんて出る訳がないと僕は思います。だから最終結論がいつも「身近なところから始めていこう」だとか「バランスをとって生きてゆこう」なんて具体性のないものになるのではないかな、と感じています。


例によって前置きが長くなりましたが、僕の環境問題に対する意識は以下の通りです。
わがままにならざるを得ない、と開き直った僕は、「大多数のためではない環境を守る」ということを最終目標に据えています。僕にとって大切なものが他人にとってそうであるとは限らないように、他人が問題としていることが僕にとって問題意識を持たせるものかどうかは分からないのです。僕にとっての環境問題は、(ごくごく狭義の、という意味では)日本固有の河川上流部の環境を保全することに他なりません。
ですから、僕は自分が好きな環境だけを守るために勉強しています。今のところはそうです。これは明らかに開き直りですが、諦めではないと僕は思うのです。誰かがCO2の濃度だけについて頭を悩ませているのなら、僕は日本の淡水域におけるサケ科の生態にだけ頭を悩ませてもいいのではないか、と。
もちろん”学問は細分化ののちに統合されなければならない”のですから、そうやって多くの人が各々の分野で環境問題を語ったのち、最終的に地球を包括するような具体的な手段が出てこなくてはならないのですが*3。ローマクラブ・レポートのように。


この開き直りが正しいかどうかなんてさっぱり分かりませんが、とりあえず今はこんな感じです。ご意見お待ちしています。

*1:狭義で、「対象となるある空間」。ここでは切る切らないという林のこと。

*2:人間ですからね。互いに相手の意見を尊重しあう人間ばかりが世界にいるのなら、そもそもこんな議論はする必要がないのですから。

*3:丸投げせざるを得ない、と僕自身では少し思っています。